信用金庫の歴史と城南信用金庫の歩み

城南信用金庫の歩み

信用金庫は、「利益」のための金融機関ではなく、地域の人々が平等に利用でき、地域の人々の幸せ、地域社会の発展、繁栄のために奉仕する「公共的使命」を達成するための金融機関です。ここでは起源から現在にいたるまでを簡単ですが、ご紹介します。

信用金庫のふるさとはイギリス

ロンドン

信用金庫は、19世紀にイギリスのマンチェスター地方で生まれた協同組合運動がルーツです。当時イギリスでは産業革命が急速に進展しましたが、その結果、貧富の差が拡大するばかりで、社会の混乱を招いていました。そこで勤労者や庶民がお互いに助け合って、みんなが豊かで安定した生活を営める理想社会をつくろうという社会運動が起こりました。これが協同組合運動であり、メンバーが協同で品物を安く購入したり、販売したり、お金をお互いに融通したりしました。日本では、ドイツの商工業者の信用組合などをお手本にして、明治33年に産業組合法が制定されました。この産業組合が、現在の生協や農協、信用金庫のルーツであり、これらの組織は、公共的使命を高く掲げた兄弟なのです。

当初から業界の中心的存在として活躍してきた城南信用金庫

城南信用金庫

城南のルーツである入新井信用組合は、明治35年7月に大森の山王在住の加納久宜(かのうひさよし)子爵によって設立されました。加納子爵が、自らのイギリス留学で得た知識を活かし、信用組合の普及、啓蒙に努めた結果、近隣の有力者が入新井信用組合に学び、城南の前身である各信用組合が相次いで設立されたのです。加納子爵は、入新井信用組合を全国の模範組合に育て上げ、大日本産業組合中央会副会頭に就任して、産業組合運動の全国普及、啓蒙に尽力しました。明治38年には加納久宜議長、入新井信用組合主催のもとに第1回全国産業組合大会が開催されるなど、城南の前身の一つである入新井信用組合は、まさに全国の信用組合運動の中心的存在だったのです。

永年にわたり信金業界のリーダーを務めた小原鐵五郎会長

小原鐵五郎会長

その当時、入新井信用組合を見習って設立された大崎信用組合に、まだ20歳前後の青年が勤務していました。後の小原鐵五郎会長です。昭和20年8月10 日、城南地区の15の信用組合が合併して、日本一の規模を誇る城南信用組合が設立されると小原氏は専務に就任し、実務面を取り仕切りました。以来、永年にわたり、城南の理事長、会長としてのみならず、全国信用金庫協会、全国信用金庫連合会(現在の信金中央金庫)の会長として活躍し、信用金庫業界の発展に多大な貢献をしました。「貸すも親切、貸さぬも親切」「裾野金融」「カードは麻薬」などの「小原鐵学」で知られ、「ミスター信金」「金融界の大久保彦左衛門」と呼ばれるなど、我が国金融界でもっとも有名な経営者の一人として歴史に残っています。ちなみに、信用金庫の中央金融機関である信金中央金庫も、昭和25年に城南信用金庫の応接間を事務所に借りて発足したものであり、いわば城南が生みの親であるとも言えます。 第二次世界大戦後、占領軍の施策により都道府県に届出をするだけで、簡単に信用組合が設立できるよう法律が改定されました。それらと一線を画すため、従来の信用組合は各界に働きかけ、昭和26年に「信用金庫法」を成立させ、一斉に信用金庫に転換しました。この「金庫」という名称については、「信用銀行」とする案もありました。しかし、小原鐵五郎会長など、当時の業界関係者の熱い思い、強烈なプライド、使命感から、「我々は、地域の中小企業ならびに国民生活の発展、繁栄を使命とする、公共的使命をもった協同組織の金融機関である」「我々は儲け主義の銀行などに成り下がってはならない」という意見が相次ぎ、最終的には当時の舟山正吉大蔵省銀行局長が、新しい金融機関の門出にあたり「金は銀よりも上です、政府機関しか使っていない金庫という名称を使うことを、特別に認めましょう」といって「信用金庫」に決まりました。

ページトップに戻る