加納久宜・小原鐵五郎

加納 久宜(かのう ひさよし)

加納久宜

加納久宜子爵は、城南信用金庫の前身である入新井信用組合の創設者です。加納家は、紀州徳川家に仕え、徳川幕府内においても若年寄や御用取次役などの要職に就いた名家で、江戸時代中期には、先祖である加納久通が、徳川吉宗(徳川8代将軍)に仕え、吉宗の側近として活躍していました。

加納久宜子爵は、1866年(慶應2年)、僅か19歳で一宮藩主となります。その後、廃藩置県により知事を免官となるも、文部省督学局出仕、新潟学校校長、東京控訴院検事を務めるなど、教育、司法と多方面に力を発揮していきます。

大日本帝国憲法が発布され、議会政治が本格化すると、再び政治の舞台に身を投じ、1890年(明治23年)、貴族院子爵議員に選出され、約7年にわたり活躍しました。

1894年(明治27年)からは、鹿児島県の県知事を務め、地域の発展を目指し、農業、水産、土木、教育などの公共事業に積極的に取組みました。県知事時代は、「民あるを知り、私あるを知るべからず」を信条としており、実際に、自らの私財を投じ、借金をしてまで民衆のために尽くしたと言われています。また、肩書きにとらわれない気さくな性格で県民から慕われ、今日の鹿児島県の基礎を築いた知事として、今なお高い評価を受けています。

県知事を退官後、1902年(明治35年7月)、イギリスの協同組合を手本に大森山王の自宅を事務所に、夫人と二人で入新井信用組合を設立し、これが、全国の信用組合の模範となり、次々に信用組合が設立されることとなります。1905年(明治38年)には、入新井信用組合と全国農事会の主催により、全国産業組合役員協議会(後の全国産業組合大会)を開催し、座長を務め、同年、大日本産業組合中央会副会頭に就任するなど、産業組合運動の全国普及、啓蒙に尽力しました。

当時の加納子爵は、教育面でも、日本体育会(現:日本体育大学)の会長として、荏原中学(現:日体荏原高等学校)を設立し、入新井村では学務委員を務め、地域の教育振興に努めました。また、実兄である立花種恭と共に学習院の創立に係り、立花氏は学習院初代院長を務めました。

農政面でも、帝国農会の初代会長に任命され、「日本農政の父」とも呼ばれるなど、民衆のために様々な分野で活躍します。1906年(明治38年)には、安田伊左衛門などと共に東京競馬会の発足に尽力し、日本人による初の馬券付き競馬を東京大森の池上競馬場にて開催しました。

晩年には、再び一宮町に移り、町長として、公共事業の整備に力を注ぎ、水田の耕地整理や海水浴場の整備、青年会や婦人会などの各種団体の育成、一宮女学校の設立など、多数の事業を手掛け、町内に大きな功績を残しました。

1919年(大正8年)、加納子爵は亡くなりますが、その時の遺言に「一にも公益事業、二にも公益事業、ただ公益事業に尽くせ」という言葉を遺しております。国のため、地域のため、民衆のために一生を尽くした加納子爵は、信用金庫は地域社会の発展に奉仕するという公共的な使命を持っていることを後世に示しました。

小原 鐵五郎(おばら てつごろう)

小原鐵五郎

城南信用金庫第3代理事長である小原鐵五郎元会長は、東京都大崎の農家出身で、大正7年に起こった米騒動で苦しむ人々を見て、貧富の格差をなくし安定した社会を築き上げたいとの思いから大崎信用組合の創設時に入職しました。

その後、大崎信用組合をはじめとする、15の信用組合が合併し、城南信用組合が設立され、現在の城南信用金庫の基盤ができました。

全国の信用金庫の中央機関である「全国信用協同組合連合会」(現:信金中央金庫)の発足にも尽力し、「全国信用金庫協会」共々、両会長職を通じて、全国の信用金庫の発展に尽力しました。

小原鐵五郎の金融語録

「裾野金融」

小原氏は、信用金庫の使命について「富士山の秀麗な姿には誰しも目を奪われるが、白雪の覆われた気高い頂は大きく裾野を引いた稜線があってこそそびえる。日本の経済もそれと同じで、大企業を富士の頂だとしたら、それを支える中小企業の広大な裾野があってこそ成り立つ。その大切な中小企業を支援するのが信用金庫であり、その役割は大きく、使命は重い。」と述べました。

「中小企業の健全な育成発展」「豊かな国民生活の実現」「地域社会繁栄への奉仕」という信用金庫の経営理念は、昭和43年に開催された信用金庫躍進全国大会で小原氏によって打ち出されたもので、一つ一つの言葉には、信用金庫の使命を示した深い意味が込められています。

「貸すも親切、貸さぬも親切」

小原氏は若い頃、産業組合中央会の勉強会に通い、金融実務の習得に励んでいました。その産業組合中央会の弁論大会で「銀行は利息を得るためにお金を貸すが、我々組合は、先様のところへ行ってお役に立つようにといってお金を貸す。たとえ担保が十分であり、高い利息を得られたとしても、投機のための資金など先様にとって不健全なお金は貸さない。貸したお金が先様のお役に立ち、感謝されて返ってくるような、生きたお金を貸さなければならない。」と述べ、これを「貸すも親切、貸さぬも親切」と要約しました。

また、日頃から「お金を貸す」という言葉ではなく、「ご心配して差し上げる」という言葉を使い、「銀行はお金を貸すことに目がいくが、信用金庫は、相互扶助を目的とした協同組織金融機関であり、まず先様の立場に立って、事業のご心配をし、知恵を貸し、汗を流して、その発展に尽力することが親切である」と指導しました。

かつてのバブル期において、大手銀行は、株式や土地、ゴルフ会員権、変額保険などの投機を取引先に勧め、そのための融資を積極的に融資しました。その後のバブル崩壊、デフレ経済により、取引先は多額な損失を被り、不健全な融資を勧めた銀行に社会的批判が寄せられましたが、こうした中でも城南は「貸すも親切、貸さぬも親切」の姿勢に徹し、取引先のためにならない投機的な融資は断ったため、取引先に損害をかけず、同時に健全経営を貫くことができました。

「カードは麻薬」

小原氏は、昭和30年代に米国の金融情勢を視察した際、米国社会はクレジットづけであり、安易な借金に頼る結果、堅実に働いて将来に備えるという「勤倹貯蓄の精神」を失い、生活が破綻し、貧富の差が拡大、これが犯罪などの社会不安を招いている」と述べました。そして、日本でも拡大しつつあったクレジットカード、消費者金融に警鐘を鳴らし、「カードは麻薬」であり、こうしたクレジットカード、消費者金融が拡大すると、やがて日本もアメリカのように、社会治安が悪化し、凶悪な犯罪が続発し、不健全な社会になることは必至であると厳しい警告を発しました。この警告は、後年、日本でも現実のものとなりました。

「国民経済」

小原氏は「経済は国民の幸せのためにある」という信念の下に、大企業の海外進出、産業の空洞化の進展を憂慮し「このままでは、やがて日本の国民は働き場所を失い、失業者が急増し、国家が衰退する」と警告を発していました。当時は「自由貿易を拡大すれば、各国経済は成長発展する」という自由貿易論が支配的であり、「国民経済」という概念は保護貿易につながり、時代に逆行する旧態依然の考えであると軽視されました。しかし、その後プラザ合意、日米貿易摩擦、構造改革を経て、経済のグローバル化が進展する中で、小原氏の懸念は現実のものとなり、日本経済はデフレと失業に苦しめられる状況となりました。近年「国民経済」を重視したフリードリッヒ・リストやケインズを再評価する動きがありますが、小原氏の考えはある意味でこうした時代を先取りしていました。

「産業金融」

小原氏は「企業に対して、低利で良質な資金を安定的に供給し、その健全な育成発展に貢献することが金融機関の使命である」と述べ、これを「産業金融」と称しました。そして、そのためにも、信用金庫は日頃から企業の経営実態を的確に把握し、親身なアドバイスに努めることが大切であると述べました。金融自由化や証券化により、間接金融から直接金融へというスローガンのもと金融機関による投資信託やデリバティブの販売が拡大し、市場で金融商品を売買して利益を得る「市場金融」が拡大していますが、小原氏はこれを批判し「産業金融に徹する」ことの大切さを常に強調しました。かつて、ヒルファーディングやケインズ、ハイマン・ミンスキーも市場金融に警告を鳴らしていましたが、近年、市場金融の拡大が製造業などの国民経済の安定的な発展につながらず、アジア通貨危機やリーマンショックなどを引き起こす中で、間接金融による「産業金融」を重視するこうした考え方が再評価されています。

「人の性は善なり」

金融機関経営においては、お金を扱う関係から、相手を疑い、ともすれば「性悪説」で相手を考えてしまいがちですが、小原氏は、若い時からの様々な経験と苦労を経た結果、逆に「人の性は善なり」ということを自らの信条としていました。

ある時、小原氏は、世間から山師と蔑視され、乱暴で、誰からも相手にされなかった人間から融資の相談を受けました。その際、小原氏は、相手をそうした色眼鏡で見ることなく、ひとりの人間として丁寧に接し、相手の人柄が信頼でき、大丈夫と判断したので、「私はあなたを信用します」と告げ、思い切って融資を行いました。

その後、相手は事業に成功し、やがて国会議員となりました。地元の名士が集って、お祝いの宴席が設けられましたが、その国会議員は、「小原さんはおられるかな。今日は床の間に小原さんをすえなきゃ俺は座らない。帰るぞ」と言い、末席にいた小原氏を招いて床の間に座らせ「私が五反田にいた頃、ほとんどの人が私をヤクザ扱いしたが、小原さんだけは、一人前の人間として扱ってくれた。だから私も、その信頼を裏切らないように、今日まで一生懸命働き、頑張ってきた。私が今日あるのは、ひとえに小原さんのおかげである」と深く感謝しました。こうした経験を経て、小原氏は「相手を信じて、恩情を持って接すれば、その心は必ず相手に通じ、相手もまた信頼と恩情に応えようと精一杯努力するものである。このように、『人の性は善なり』と考えるべきであり、私の経験でも、まず裏切られるようなことはなかった。」と語っていました。

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