信用金庫とは

概要

城南信用金庫

信用金庫とは、昭和26年(1951年)6月15日の信用金庫法施行により誕生した、会員の出資による協同組織の地域金融機関です。営業地域は一定の地域に限定されている中小企業ならびに地域住民のための専門金融機関です。大企業や、営業地域外の企業・個人には融資出来ないという制限がありますが、これは「地域で集めた資金を地域の中小企業と個人に還元することにより、地域社会の発展に寄与する」という信用金庫の設立目的を果たすためです。 現在、信用金庫全体で約120兆円の預金残高を有し、地元の中小企業を中心に63兆円の資金を融資している等、地域経済社会において確固たる地位を築いています。なお、世界的に見ても、協同組織による地域金融機関は、英国の「クレジット・ユニオン」、ドイツの「クレジットゲノッセンシャフト」、米国の「クレジット・ユニオン」などが有名であり、いずれも中小企業や庶民の生活に密着した経営を展開し、各国の金融の分野で大きな役割を果たし、着実に発展を続けています。こうした協同組織は、歴史的に、産業革命の中で行き過ぎた個人主義や市場経済による人間疎外が発生し、それを是正するために生まれたものであり、目先の効率を目的とした市場原理ではなく、コミュニティーの形成による相互扶助や福祉・育成・発展という社会的な原理を基本としており、その意味から、コミュニティーバンクとも呼ばれています。近年のグローバリゼーションを背景とした株主資本主義の流れの中で、日本の金融界でも、短期的な投資収益率を重視する海外の機関投資家などの株主の意向を受けて、収益重視の経営を志向する傾向が強まっていますが、信用金庫は、協同組織金融機関であり、信用金庫法により、地域の利用者である中小企業や一般個人に出資資格が限定されているため、地域の利用者に配慮した、より社会性、公共性を考慮した長期安定的な経営が可能となっています。また、自由主義、個人主義に根ざした市場経済の進展により、損得やビジネスによる取引関係が拡大し、結果として地域社会や企業などの共同体が弱体化して、社会の連帯、モラル、活力が低下していますが、協同組織運動は、こうした近代の自由主義、個人主義を批判し、地域住民・中小企業・経営者や従業員の相互扶助を促進することにより、地域コミュニティーを再構築し、コミュニケーションを通じて、お互いの成長と育成を促進し、健全で良識ある社会の発展に貢献する社会運動であり、経済環境が厳しさを増す中で、信用金庫に対しても、こうした協同組織運動の精神を持った金融機関という本来の役割発揮の期待が高まっています。

沿革

ロンドン

<協同組合運動と産業組合法>
明治維新以降、日本は、資本主義による急速な産業化を進めましたが、こうした中で、株式組織の銀行は、地方で集めた資金を、都市部の大企業や土地投機に集中的に運用したため、地域の中小零細企業や庶民は、自分たちの預けた資金を利用出来ず、地域社会は疲弊衰退し、貧富の差が拡大し、社会の混乱が生じました。
明治政府は、こうした資本主義の弊害を是正するためには、資本の原理による株式会社の銀行ではなく、ドイツの信用組合を見習って、営業地域や融資対象を限定し、一人一票の民主的な運営原理による協同組織の金融機関を創設することこそ、中産階級の育成と庶民の生活安定のために必要であると考え、内務大臣の品川弥二郎や平田東助が中心となって、明治33年(1900年)に産業組合法を制定しました。この産業組合法にもとづき、ドイツの法律家シュルツェ・デーリチュの考案した信用組合をベースとして、全国各地の地主や有力者が中心となって信用組合を設立しました。これが、現在の信用金庫の前身です。これと同時期に南ドイツの行政家ライファイゼンの考案したライファイゼン式信用組合が日本でも設立されました。これが農業協同組合の信用事業の前身で、両者は、同じ産業組合の理念を共有する仲間であり、協力関係にあったのです。当時の「産業組合の歌」(西条八十作詞)には、農林漁業や商工業という産業の枠を超えて、「共存同栄」という理想のもとに集まり、「相互扶助」によって時代の荒波を乗り越え、愛の力で理想郷を築こう、という趣旨がうたわれており、関係者が社会運動として理想と情熱をもって取組んでいたことが伺えます。新渡戸稲造や宮沢賢治など、当時一流の知識人が、この産業組合運動に尽力したことは広く知られています。協同組合運動は、19世紀に英国の実業家であるロバート・オウエンが、働く者の生活安定を考えて、工場内に購買部などを設けた「理想工場」をスコットランドのニューラナークに設立したことに遡ります。その思想を受け継ぎ、マンチェスター郊外のロッチデールにおいて、生活用品を高く買わされていた労働者達が、資金を集めて、商品を安く購買できる自分達の企業を作ったのがロッチデール先駆者協同組合であり、これが世界で最初の協同組合です。株式会社と異なり、出資額に関わらず、一人一票の平等の権利を有するという民主的な運営を行うなど、資本主義の弊害を是正するための協同組合原則、いわゆる「ロッチデール原則」を確立し、これが現在の協同組合の原理となっています。
これらは、英国の産業革命において、労働者が資本家に搾取され、資本家と労働者の貧富の差が拡大したこと、労働条件が悪化したことなど、資本主義経済の矛盾を是正するために生まれたものであり、事業分野としては、購買、販売、信用事業を行いました。これが、現在の生活協同組合や農業協同組合、信用金庫などに機能分化していきました。このように信用金庫は、生活協同組合、農業協同組合とも発祥を同じくする社会運動だったのです。ちなみに、フリードリヒ・エンゲルスは「空想から科学へ」の中で空想的社会主義者としてロバート・オウエンをとりあげ、批判しながらも高く評価しており、理想社会である共産主義社会において、生産手段が社会化されるというエンゲルスのアイデアも実は協同組合運動から借りたものです。
一方、日本においても、幕末の社会運動家である二宮尊徳が、勤倹貯蓄と相互扶助を目的とした報徳思想(報徳社運動)を起こし、これを全国に広めましたが、これが、日本における信用金庫などの協同組合運動の思想的なルーツの一つであると言われています。「自助論」の著者イギリスのサミュエル・スマイルズ、アメリカ建国の父ベンジャミン・フランクリンの思想に勝るとも劣らない、世界に誇るべき、優れた思想・運動として、いわば日本で独自に発達した協同組織運動として、明治の産業組合運動に大きな影響を与えていると言われています。日本最古の信用金庫「掛川信用金庫」は二宮尊徳の弟子である岡田良一郎によって設立されました。

小原鐵五郎会長

<市街地信用組合法の制定から信用金庫の誕生へ>
その後、都市の中小工業者を対象とした信用組合のために、1917年(大正6年)に産業組合法が一部改正され、市街地信用組合が生まれ、さらに1943年(昭和18年)には、単独法である市街地信用組合法が制定されましたが、終戦後、GHQの占領政策により、中央集権から地方分権への政策転換が進められ、旧市街地信用組合は、法律上中小企業等協同組合法に基づく信用協同組合とされました。しかしながら、この信用協同組合は、経営者の兼業禁止規定もなく、監督官庁が大蔵省から都道府県となり、都道府県への届出だけで簡単に設立できるため、旧市街地信用組合とは経営理念、歴史、経営内容が大きく異なる信用協同組合が新たに林立し、それらと同一視される懸念がありました。
このため、旧市街地信用組合は、それらと一線を画すため、1951年(昭和26年)に、議員立法により、新たに大蔵省直轄の協同組織金融機関制度である「信用金庫」を創設し、一斉に転換しました。当時、無尽会社が相互銀行、信託会社が信託銀行と、大半が「銀行」に名称変更したのに対し、当時の信用組合の関係者(当金庫の故小原鐵五郎会長など)は、「儲け主義の銀行に成り下がりたくない」という強いプライドから「信用銀行」という案を拒否し、最終的には、当時の舟山正吉大蔵省銀行局長から「金は銀よりも上」として、政府機関しか使っていなかった金庫という名称を使うことを許され、「信用金庫」という名称になりました。

銀行との違い

銀行は株式会社で、個人取引もありますが、大企業が主な取引先です。一方で、信用金庫は、会員の相互扶助を目的とした協同組織で、町の中小企業や個人が主な取引先です。銀行が株式会社であるため株主の利益を優先するのに対して、信用金庫は地域の人々が利用者であり、会員となって、お互いが地域の繁栄を目指しながら取引を行うという地域機関ですので、利益第一主義ではなく、会員・地域社会の利益がまず優先されます。誰のための金融機関であるかという点が大きな相違点です。

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